世界遺産へ向けての民間活動です 広瀬淡窓先生が通った日田歴史遺産を訪ねて |
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| (かんぎえん ほうがくゆさん の かい) | 咸宜園を世界遺産に! |

| 日田市長文化功労賞を宇野公是会長が受賞されました。 (2024/11/9更新) |
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| 咸宜園に関わる大分合同新聞社の 記事新聞に連載されたものを資料化しました 当会メンバーなどが記事を書いています(23回分・現在も継続中) |
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![]() ![]() 資料問い合わせは下記のメールで問い合わせ下さい 一部の資料は、トップの咸宜園エコミュージアム構想 で紹介しています info@hita-kangien.main.jp |
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| 広瀬淡窓先生の紹介 (日田の先哲) 身分に関係なく、学べた、私塾 江戸時代の咸宜園 |
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| 広瀬 淡窓(ひろせ たんそう、天明2年4月11日(1782年5月22日) - 安政3年11月1日(1856年11月28日))は、江戸時代の儒学者で、教育者、漢詩人でもあった。末弟に広瀬旭荘、弟・広瀬久兵衛の子孫に、日田市長、衆議院議員だった広瀬正雄、その子息の広瀬勝貞は元大分県知事。 文化2年(1805年)には豆田町にある長福寺の一角を借りて初めの塾を開き、これを後の桂林荘・咸宜園へと発展させた。咸宜園は淡窓の死後も、弟の広瀬旭荘や林外、広瀬青邨等以降10代の塾主によって明治30年(1897年)まで存続、運営された。塾生は日本各地から集まり、入門者は延べ4,000人を超える日本最大級の私塾となった。 淡窓は晩年まで万善簿(まんぜんぼ)という記録をつけ続けた。これは、良いことをしたら白丸を1つつけ、食べすぎなどの悪いことをしたら1つ黒丸をつけていき、白丸から黒丸の数を引いたものが1万になるようにするものだった ウキペディアより引用 |
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| 広瀬淡窓先生と塾生がが訪れた日田歴史遺産(日記) | ||||||||||||||
| ①羽野天満宮②羽野菅相寺跡③羽野妙見社④天満宮⑤薬師堂⑥山田原⑦吹上神社⑧吹上山⑨長善寺⑩岳林寺⑪永山城⑫永山府政所(日田代官)⑬蒲池家⑭朝日天満宮⑮石松観音堂⑯無観音⑰慈眼山⑱永興寺⑲日田神社(相撲の神様)⑳上馬場大神宮㉑城内八坂神社㉒大原八幡宮㉓金比羅神社㉔丸山神社㉕宮地嶽神社㉖元大原神社㉗若八幡神社㉘会所山㉙比佐津媛神社㉚鬼塚㉛玉垂神社(黒男)㉜児玉家旧宅㉝星隈山㉟酒楽神社㊱大神宮㊲若宮神社㊳垂水渡し㊴四手平坂㊵誠和稲荷㊶琵琶の頚㊷銭花渓㊸釜淵㊹鬼城金比羅㊺普門寺㊻稲荷社㊼越原観音㊽越原の石碑㊾鏡坂公園㊿鏡坂大明神51石井神社52松尾神社53小畑神社54白岩神社55護願寺56帽子被山57石坂石畳58小ヶ瀬井路取水口59鞍方尾神社60雪来館61中島の梅林 |
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淡窓先生の日記の「放学」・「遊山」とは
| 「放学」とは、前述のように塾生たちを毎日きびしい日課から解放し、よって日常の抑圧感を解消し、翌日からの学業に活力を与えようとするものであつた。 「遊山」とは、日記では「諸生遊山」と見えるのがそれである。「諸生遊山」は、天保年間ごろから春と秋に半ば定例的におこなわれている。その 「遊山」 の目的地は多くは明らかにされていないが、おそらく前掲のような神社・仏閣、景勝地などに塾生と一緒に赴いたのであろう。嘉永7年の7月14日をもって「放学」の記事は終わります。 |
咸宜園散歩コース
淡窓先生が通った歴史遺産や自然環境を、現代の散歩コースを模索して、歴史の点を線でつなげて、郷土愛や観光資源としての活用を目指し、世界遺産へ向けた活動につなげていく。○豆田周辺の歴史散歩コースを紹介しています。 文字をクリックしてください。
車・歩きでの観光 咸宜園オススメの場所11ヶ所
中世の道
八幡の道
咸宜園教育研究センター

江戸時代、日田の儒学者・廣瀬淡窓が開塾した咸宜園(かんぎえん)。門下生を平等に教育するなど、当時としては画期的な方針で、明治30年に閉塾するまでの門下生は約5,000人と日本最大級の私塾であった。当時の貴重な史料や収蔵品などを見る事ができる。

【住所】大分県日田市淡窓2-2-18 【電話】0973-22-0268
【営業時間】9:00~17:00(入館は16:30迄) 【休み】水曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始











